ふくろう党の蜂起、忠誠の戦争
1792-1804 : CHOUANNERIES, UNE GUERRE DE LA FIDÉLITÉ
通訳音声起こし文
*この特設ページにつきまして*
1.当ページは、2019年に開催された国際シンポジウム『フランス革命から230年、伝えられなかった真実を見直そう』の、アーカイブ動画のひとつを基に構成しています。
ただし、当ページ自体は、イベント外部の個人(=当個人サイトの管理者:師走二八/以下「当方」)が作成したものです。動画投稿者様やイベント主催者様とは 直接関係があるわけではないので、ページについてお問い合わせがある場合は 管理者宛てにご連絡ください。
2.文章は、日本語通訳者様(=動画内の語り手)の言葉を、当方が文字起こし+人名綴りなどを補足したものです。当ページでの掲載に伴い、動画投稿者様に許可をいただいております。
なお、内容中での政治思想・宗教的な観点による表現については、あくまで原文寄稿主のアン・ベルネ様 または 通訳者様によるものであることを、ご了承ください。
3.当ページ上でも、文章と動画のタイミングの目安になるタイム表記をしておりますが、こちらは動画の再生バーとは連動はしていません。手動でタイミングを合わせてください。
★YouTube側のコメント欄にて、タイムジャンプ適用版を投稿しております。(2020年6月時点)
4.地図画像は、資料をもとに当方で作図したものです。絵画画像は、いずれも外部からのパブリックドメインですが、引用元の規定に沿って使用しています。
動画公開元:フランス革命230周年・国際シンポジウム(YouTube)
https://www.youtube.com/playlist?list=PLZ0bRY1tJlDHXVsiczhp4juqntc_OF4mV
動画投稿者様:白百合と菊Lys et Chrysanthème 様
https://www.youtube.com/channel/UCF3cr1QHbU9pIiYPwXcESaQ
*目次*(項目をクリックすると 該当の箇所へ移動します)
0:00【1】はじめに/ふくろう党の蜂起(シュアヌリ)とは何か、ヴァンデ戦争との違い
18:07【3-2】大反乱前夜の人々/タルモン公爵とコトロー
26:37【4-1】西部地方の反乱/ロワール河北部(ブルターニュ、メーヌ、ノルマンディー)
30:20【4-2】西部地方の反乱/ロワール河南部(ヴァンデ:カトリック・王党軍)
58:52【9】貴族の司令官/マイエンヌの悲劇、ノルマンディーのフロッテ
【 1:はじめに/ふくろう党の蜂起(シュアヌリ)とは何か、ヴァンデ戦争との違い】
0 :00
あの「ふくろう党」って皆さん、ご存じかどうか分からないのですが…
フランス革命のときの、日本の世界史などでは ほぼ絶対に教えられることのない「ふくろう党」という、反革命で戦った王党派の人たちがいた、というですね。その「ふくろう党」というですね、ブルターニュ地方、フランスが六角形あってその左側・一番ヨーロッパの西端にある地方の話です。
本当は時間があったらパワーポイントでヒラサカさんがやったように、地図とかですね、たくさんの人物が出てきますので 写真などお見せできたらよかったのですが… ちょっと頭のなかで想像してください。
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1789年のフランス および 北西地方の各旧州の位置
1:23
では始めます。『1792年から1804年 ふくろう党の反乱 忠誠の戦い』というものです。
フランスでも外国でもヴァンデの反乱〔guerre de Vendée〕はよく知られていますが、ロワール河北部で起こり、『ふくろう党の反乱(シュアヌリ〔Chouannerie〕)』と総称的に呼ばれる反乱は、それほど知られていません。
ふくろう党の反乱は、ヴァンデの反乱に先立って始まり、ヴァンデ戦争が終わってからも続きました。ふくろう党の反乱とは言っても、関係する地域や時期によって、バラバラな特徴を持っていました。
“白いジャコバン主義〔jacobins blancs〕”と呼ばれたこともあったほど、ふくろう党の反乱は本質的に農民を中心にした反乱であり、ヴァンデ戦争とは違い、貴族によって組織化されることも 貴族の司令官を持つことも ほとんどありませんでした。
ヴァンデの反乱よりも政治的な反乱であり、田舎の抵抗運動であったうえに かなりバラバラで複雑な幾村の反乱だったため、しばしば歴史家をうんざりさせてきました。
まず、文献資料が不足しています。ふくろう党員の戦士たちは、ほとんど読み書きができず 証言や自伝が非常に少ないため、ふくろう党を敵にした教養のある人々は、そうした文献資料の少なさを利用して ふくろう党の戦いを非難して汚し続けてきました。
また、ふくろう党の戦いに対する理解が 不足しています。ヴァンデ戦争は、正当なことにも早い時期から 栄光ある素晴らしく偉大な反乱として賞賛されてきたのと違い、ふくろう党の反乱は20年間ずっとゲリラ戦方式で、多くは地下で続いた 夜間での戦闘が多かったせいか、ヴァンデ戦争ほど見た目が煌びやかではなく、ふくろう党の反乱は美化されにくいところがあります。
3:20
ナポレオン〔Napoléon〕でさえ ふくろう党の反乱を完全に平定できず、政教条約が結ばれても反乱が続いたため、ふくろう党員を悪者扱いして みなすことにしました。つまり、“悪者〔brigands〕”という言葉・革命的な用語をあえて採用しましたが、実際のところ 独裁政治に抵抗し挑みだす 勇気に満ちた人々を指す用語だと言えましょう。
したがって、この“悪者〔brigands〕”というレッテルが付けられて以来、ふくろう党員の 英雄的かつ頑固そして致命的な戦いは、不正にも長く貶されてきました。現代でも、ふくろう党員の子孫に至ってさえ 2世紀以上の革命的なプロパガンダによって洗脳された結果、ふくろう党員の子孫であることを 謝罪することも珍しくない状況になっているのです。
しかしながら、ふくろう党の反乱は、革命がフランスに課そうとした 新しい秩序を拒否した良き例となっています。それら多くの男性と女性は、死んでまで、古き良き秩序に忠実を尽くし、白百合の国に忠誠を尽くし、十字架に帰依し尽くした人々の良き例であり 良き模範なのです。
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ロワール河と各旧州
1790年代の北西部諸県 および 1793年の"ヴァンデ地方" 該当域
4:53
ロワール河は当時 地域を分ける境界となり、上流のアンジュー地方とヴァンデと、メーヌ地域、ブルターニュの下流ノルマンディーを分けていました。後者のそれぞれの地方において、ふくろう党の反乱は長く続いて盛んに行われていました。
公式には、ふくろう党の反乱が始まったのは1792年8月15日、マイエンヌ河流域のサン=トゥーアン・デ・トワという村でのことでした。完全に終わったのは1815年の夏のことでした。つまり、ルイ18世〔Louis XVⅢ〕が決定的に王座への復帰を遂げたときに、歳を取っていた最後の兵士たちは 武器を捨てることにしたのです。
その頃ヴァンデ戦争はすでに過去の栄光の記憶になっており、どれほど頑張っても ヴァンデでの反乱は二度と起きませんでした。
しかし25年前、フランス西部が内戦に身を投じることになるような兆しは、なにも見られていませんでした。この内戦が、この地方の運命を決定的に変化させることになるのです。
【 2:革命政府による教会改革の闘争】
6:06
1788年、フランス全体が政治・税制・社会的改革の必要性を認めていました。
ルイ16世〔Louis XVI〕は、制度体制の重圧と 利己主義の重圧に歯止めを掛けられて、改革を押し通すことはできませんでした。
人々は緊急で不可欠な変革によって、国家の構成要素がそれぞれ自分の場所を見出し、共通税のために働くことが可能になるだろう、1789年5月5日ヴェルサイユで開始された三部会の集会から そうした変革が生まれるだろう、と信じていました。
しかしそうはなりませんでした。三部会の議員たちは彼らの権限を越えて『憲法制定議会〔assemblée constituante〕』を宣言し、たちまち王権の基盤を崩し始めることとなったのです。
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1789年5月5日 ヴェルサイユでの全国三部会
(Ouverture des Etats Généraux à Versailles le 5 mai 1789)Helman作
出典元:カルナヴァレ博物館
1789年6月20日 ジュ・ド・ポームの誓い
(Le serment du Jeu de Paume : Versailles 20 juin 1789, formation des 3 ordres en Assemblée nationale)Jazet作/出典元:カルナヴァレ博物館
ところが、圧倒的多数のフランス人は歴代国王に愛着を持っており、王権を打ち倒すことなど考えたことはありませんでした。
ルイ16世は、臣民の血を流す覚悟ができず、彼らが反逆したとしても 力と権威をもって対応することができず、すぐに手に負えない事態となっていました。
たちまち暴力が荒れ狂いました。イギリスの諜報員はフランスを揺るがすことに大喜びし、フリーメーソンのロッジは、古くからの教会と王室との連帯を 新秩序に置き換えることを決心していました。
標的を定めての暗殺や計画的な虐殺が行われ、全国に恐怖と不安の空気が走り広がりました。それはとりわけ危機に打ち勝つため、国王に助言し 国王を支え助けるすべての人々を、国王から奪うための暴力でした。
8:00
革命家たちが狙っていたのは、王座というよりカトリック教会でした。彼らは教会を破壊しようとしており、最初ルイ16世は させるがままにしていました。
まず、修道院に対し、修道士・修道女を受け入れることを禁じ、ついで終生誓願を受け入れることを禁じました。
それは全く無用なものであると判断された、祈りに捧げられた修道士・修道女を消滅させる禁止令でした。
そして1789年11月2日、国会が聖職者の財産を没収しました。
莫大な財産でしたが、それらは初等教育、中等・高等教育施設、施療院、養老院、孤児院、ホームレスの保護施設、貧者・病人・障がい者への支援施設を、すべて保障していました。それらを没収することになりました。
教会は、支援を必要としている人々に 支援を差し伸べられなくなり、国家は、教会に代わってその負担を担うつもりはありませんでした。
そして、フランスの教区の地図を 新たな県の地図と一致させ、多くの司教区が削除されることとなりました。
こうした行政措置は、人々が愛着を持ってきた古くからの物事の秩序を覆し、小さな町からは 経済的に成り立たせていた教会管轄構造を奪い取ることになりました。
9:34
1790年4月、『非キリスト教化〔déchristianisation〕』政策の意志を 象徴化する出来事が起こります。
人口の95%がカトリック信徒である国においては 自明のものであった、カトリシズムは国家宗教である、とする国家法案が 国民議会議員たちによって否決されたのです。
5月31日、彼らは『聖職者民事基本法〔la constitution civile du clergé〕』を採択し、11月27日に施行されました。この法律は、フランス人の司祭たちを公務員化し 教皇の権威から取り上げるもので、ローマからの事実上の分裂を引き起こしました。それまで教会は、自覚しつつも抗議せず略奪されるがままになっていました。すでに証拠もありました。あらゆる反応が 革命系の新聞と当局の新聞からの罵倒をエスカレートさせ、非難糾弾を引き起こすだろう、ということを意識していたのです。
それから間もなくカトリック信徒たちが、“狂信のゆえに”、言い換えれば信仰への忠誠ゆえに、数千人単位で死に追いやられていきます。
10 :51
もはや司教団は黙っていることができなくなりました。宗教の保護と魂の救済にかかわることでした。
弱くて卑怯だと思われていたフランスの司教たちが、突如、全員一致で新しい法律に異議申し立てをしたのです。基本法に同意した司教は、5人しかいませんでした。司教たちは 世俗権力に従属する宣誓を拒否し、司祭たちは宣誓することも禁止しました。
こうした予想外の断固とした抵抗は、当局を苛立たせ 強迫的な態度を取るようになりました。聖職者は1791年2月までに宣誓する事とされていましたが、この期限を過ぎたら 宣誓拒否した全ての司祭は司祭職から罷免され、給付金も没収され、小教区を離れなければなりませんでした。こうして近親者たちからの助けを得られないようにしたのです。
こうした措置は、聖職者たちが従属することを促すものでしたが、そうはなりませんでした。
確かに、それほど熱心でなかった地域では、聖職者の約半分が宣誓を受け入れました。
ルイ16世が国王の拒否権を行使せず、また、不可解にも教皇ピオ6世〔pape Pie Ⅵ〕が口を閉ざしていたために、なおさら容易なことでした。
12:24
しかし西部では、18世紀初頭の人々をカトリシズムに立ち返らせるための布教、とりわけ 聖ルイ=マリー・グリニョン・ド・モンフォール〔saint Louis-Marie Grignion de Montfort〕の布教が大きな実りをもたらしていました。
宣誓拒否率は爆発的に増え、80~90%に達しました。 当然、革命当局が宣誓拒否司祭に対し、禁固刑と流刑を最初に要求したのは 西部地方においてでした。
ついで、宣誓司祭からの秘跡を拒否していた信徒たちにも、制裁を加えるようになりました。肉体的暴力も増えていきましたが、もはや折れ合うことは論外となりました。というのも1791年4月4日、教皇は、宣誓司祭で 宣誓を撤回しない全ての聖職者を破門にし、また、宣誓司祭のもとに行きミサと秘跡に与る信徒たちをも 破門にしていたからです。
宗教的迫害が始まっていました。まもなく血生臭いものとなるでしょう。西部では、侵害された意識をもつ人々が それに耐えられませんでした。内戦がくすぶっていました。
教会は流血を嫌います。たとえフランスの教会が自分の血をたくさん流し、膨大な数の殉教者を カトリック教会に与えることになるにせよ、武器を取るよう教会が促したことはありません。反乱は、激怒した在俗の人々が起こしたものです。
14:05
信徒たちが愛していた司祭を引き留める許可と、個人の礼拝堂で カトリックの祭儀を行う許可を得るために 当局のもとでとった手続きは、すべて拒否と脅迫にぶち当たったため、たとえ法律の外に身を置くことになっても 許可なしにやっていくしかありませんでした。
秘跡を確保し、宣誓拒否司祭を守る必要がありました。
いくつかのネットワークが組織されました。森の中でも、納屋でも、客間でも、海岸にいるときは船の上でも祭壇を築き、夜に秘密のミサ聖餐を行いました。武装した男たちが革命軍の到着を知らせるために見張りをし、安全を保障していました。
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1793年 海上で行われるミサの様子
「Une messe en mer en 1793」Duveau作/出典元:レンヌ美術館/引用元:ウィキメディアコモンズ
いくつかの小教区全体が、このようにして危険を冒して集まっていました。というのも、服従することを拒んだカトリック信徒に対し、当局の憎しみは増す一方だったからです。
こうした自発的行動にはコーディネーターが欠けていましたし、こうした怒りには指導者が必要でした。
【 3-1:大反乱前夜の人々/ラ・ルエリ侯爵】
15:19
ブルターニュの貴族、アルマン・テュファン・ド・ラ・ルエリ〔Armand Tuffin de La Rouërie〕は今や40代でしたが、青少年期の無分別な行動で知られていました。
アメリカ独立戦争の初期、アメリカへ渡った彼は 栄光に包まれ有名になって帰ってきました。それから彼は退屈して、国王の改革への試みに反対することに 身を投じていました。その口実は、国王の改革は ブルターニュ公国の特権と権限を侵害するから、というものでした。
ルイ16世は改革を諦め、1789年8月4日の夜、ブルターニュの特権は一掃されました。
それ以来、ブルターニュは自立性を奪われ、新しい税金に打ちのめされ、先祖代々伝わる司教区のうち4つが切り捨てられ、カトリックの礼拝も奪われて 悔しさに激怒していました。
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1789年8月4日から5日の夜、議会による特権破棄の決定
(Assemblée Nationale abandon de tous les privilèges, à Versailles, séance de la nuit du 4 au 5 aout 1789)Helman作
出典元:カルナヴァレ博物館/引用元:パリ市博物館ポータルより-LES IMAGES LIBRES DE DROITS集
そのことを、ラ・ルエリは幅広いサークルの中心で、交際と友人の繋がりを通して知っていました。
伝統的秩序が破壊されるのを前にして、何もせずにいることはできず、また、政府からの干渉に抵抗してきたブルターニュの過去に支えられ、戦う時がきた、と判断しました。
かつて力強かった頃のフランス王政を 彼と友人たちは嫌悪していましたが、王権が彼らに何も提供できなくなった今、命がけで守ることにしたのです。
16:56
『ブルターニュ連合〔Association bretonne〕』という名のもとに、ラ・ルエリは各地に委員会を設立しました。
ケルトの古い慣習に従って3つの社会的身分から聖職者・貴族・第三身分を集め、人民に根差した基盤と組織を与え、成功と持続性を保証することができました。
その目的は何だったのでしょうか。
西部地方全体において、革命に反対する人々を連合させ、亡命していた王族の親王たちが後ろ盾となった反乱を起こすことでした。その機会が訪れれば、国内で戦線を開き、連合軍の部隊がフランスに入ることが可能になります。
数か月で、ラ・ルエリはネットワークを設置し、貴族平民を問わず来たる反乱の指導者たちを養成し、彼らは反革命のプロパガンダとリクルートを担当しました。外国との連絡ルートを配置し、郵便と武器の運搬を可能にしました。
【 3-2:大反乱前夜の人々/タルモン公爵とコトロー】
18:07
最初、ブルターニュ公国に根をおろした連合でしたが、間もなく外部からの支援も加わるようになりました。
最も大きな支援は、タルモン公〔Talmont〕(フランスの第3公爵家の次男フィリップ・ド・ラ・トレモイユ〔Philippe de La Trëmoille〕)から、もたらされました。彼は様々な繋がりでブルボン家の従兄弟であり、プロシアとイングランドの君主の従兄弟でもありました。
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アントワーヌ=フィリップ・ド・ラ・トレモイユ、タルモン公爵
「Antoine-Philippe de La Trémoille, prince de Talmont」Cogniet作/出典元:ショレ歴史美術博物館/引用元:ウィキメディアコモンズ
1789年、彼は両親の命令により亡命しました。彼はまだ未成年で、当時の成年は25歳だったからです。両親は彼が反革命運動に身を投じることを恐れていました。
亡命先のタルモン公は、王権と祭壇を守るために尽力する手段が見つからず、苛立ちが抑えきれない状態でした。ルイ16世の弟であるアルトワ伯〔d’Artois〕に謁見するため、コブレンツに立ち寄ったラ・ルエリと出会ったことで、王族軍以外で行動する見通しが開けました。
名門貴族に属していたラ・トレモイユ家は、西部全域に領地を有し、領民たちとの絆も一度も切れることなく保たれていました。複数の領主であり、なかでもブルターニュのヴィトレと、メーヌのラヴァルの領主であり、領地の農民たちに対し保護の義務を負っていました。
数年前、フィリップ・ド・ラ・トレモイユは、厄介な事件に関わっていた領民の一人を絞首刑から救い出しました。
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ジャン・コトロー(推定の肖像画)
(Portrait présumé de Jean Chouan)Labarre作/出典元:ふくろう党蜂起博物館/引用元:ウィキメディアコモンズ
19:52
この青年は当時25歳で、ジャン・コトロー〔Jean Cottereau〕という名前でしたが、伝統的にこの一族は 『シュアン〔Chouan〕』、“ふくろう”というあだ名に喜んで応じていました。シュアンというのは〔chat-huant=モリフクロウ〕という語が変形した方言でした。
というのも、なぜそのあだ名になっていたかというと、メーヌ河下流の多くの人々と同じく、コトロー家も何世代も前からブルターニュ公国とともに塩の密輸入に携わっていましたが、塩は、ブルターニュでは王家による塩税〔gabelle〕を課されておらず、夜行性の鳥である ふくろうの鳴き声が、塩の密売グループへの合図として使われていたからです。
それらは副業的収入源である以上に、危険な駆け引きでした。というのも、捕まった場合 長期間牢獄に入れられる恐れがあったためですが、向こう見ずな若者たちが使われていました。
ジャン・コトローは、この駆け引きに秀でていました。そのため多くの敵を作っていました。まず、密売取り締まりの主務にあたっていた徴税請負人の官吏たちです。
21:26
運悪く彼はある日、そうした官吏の一人と喧嘩を始めました。アルコールが手伝い、殴り合いが行き過ぎ敵を殺してしまったのです。欠席判決で死刑が言い渡される厄介な事件でした。彼は判決が下されたとき逃走しており、おそらくはラ・トレモイユ家の領地に避難していました。
というのも彼は、青年期、彼より数歳年下のタルモンと友情で結ばれていたからです。
時が経ち、コトローはホームシックにかかり、故郷に帰ることにしました。
人々はこの事件のこと全てと、彼を待ち受けていた死刑判決のことをもう忘れてしまっただろう、という幻想を抱いていたのです。残念ながら帰省するや密告され、逮捕されて投獄されました。死刑執行はもはや、あと数週間の問題でした。
その時、母が息子を救うためになんでもしようとして、メーヌ下流地方からヴェルサイユまで徒歩で向かいました。そしてタルモンの助けを得て、ルイ16世から息子の恩赦を獲得したのです。宮殿から出ると、ジャンヌ・コトロー(ジャンの母)はこうした田舎の人々の誇りを要約する、見事な言葉を言いました。
「今やブルボン王家と私たちの間には、大きな何か関係ができました」と。
かの息子が、この名誉ある借りを返す時がやってきました。タルモンに続き、ジャン・シュアンがブルターニュ連合に加わりました。
彼はかつての密輸ネットワークを導入し 国外脱出組織に形を変えて、死の危険にさらされた追放者たち、まず司祭たちをコタンタン海岸まで辿り着かせ、国外へ出ることを可能にしました。
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西部の各地点 および シャロンの位置関係
23:17
1792年の精霊降臨の祝日に、ブルターニュ連合は反乱を開始する準備ができていました。
その合図は、連合軍がシャロン=シュル=マルヌ市に入った時に出されることになっていました。国内戦線の開始によって 革命政府は揺るがされるだろうとみていました。
成功を保証されていたように見えますが、ラ・ルエリの親友であったシェヴテル医師〔Chévetel〕の裏切りによって妨げられました。彼は、陰謀の計画をダントン〔Danton〕に漏らしていたのです。
シャロンの街は堅固に守られ陥落せず、反乱の合図も出されませんでした。
24:06
ラ・ルエリが何もできないまま知らされたのは、1792年8月10日のテュイルリー宮殿の襲撃、国王一家のタンプル塔への投獄、9月虐殺、連合軍の撤退、共和制の設立、という出来事でした。
彼は反乱の命令を出すことを決心しましたが、コトローの一味以外には誰も動いてくれず、それでも8月15日に行動に移しました。しかし支援が足りず、コトローの一味も地下に潜らざるを得ず、報復を恐れて命令に従いませんでした。
追い詰められ病気になった侯爵は、友人の家に避難所を見出しました。
1793年1月21日、ルイ16世の死刑執行の知らせが とどめを刺しました。それを追うように、彼は31日に亡くなりました。この栄光なき最期と、ブルターニュ連合幹部会の主要メンバーの逮捕、1793年6月の彼らの死刑執行は、西部地方におけるあらゆる反乱を断罪するかと思われました。
ところが、まったくそうはなりませんでした。アルマン補佐官の従姉妹にあたるド・モエリアン嬢〔de Moëlien〕の献身的な働きがあったからです。彼女は従兄弟が逮捕される前に 運動の記録資料を処分し、陰謀の加担者たちの大部分が救われました。
25:41
1793年の春になると、ブルターニュ連合は灰の中から復活し、最初の反乱者コトローの名を借りて“シュアヌリ(ふくろう党)”と名乗るようになりました。その頃ロワール河対岸では、住民全体が革命に対して反乱を起こしていました。
ルイ16世の死刑執行は、ヨーロッパの王政に投げかけた挑戦状のつもりでしたし、フランス国内において、革命イデオロギーになかなか組しようとしないフランスを、恐怖によってコントロールする効果的手段のつもりでもありました。当初この計算は正しいように思えました。国王の死は全国に衝撃を与え、あらゆる抵抗を麻痺させました。こうした無気力状態は当局を安心させ、新たな要求へと駆り立てました。
それは行き過ぎになる、ということを予想していませんでした。
【 4-1:西部地方の反乱/ロワール河北部(ブルターニュ、メーヌ、ノルマンディー)】
26:37
1793年2月24日、外国からの脅威に立ち向かうために 国民公会〔Convention〕が国家総動員を布告し、独身および独り身《寡夫》の40歳未満の男性から くじ引きで30万人を徴兵することを決めました。政府の支えであり地方の暴君だった国民衛兵は、徴兵から免除されていました。
王政への愛着が大きく、カトリック信仰が強い地域では、この一滴の水が花瓶を溢れさせることになりました。
王殺しであり迫害者である体制のために、また、政権の支持者は政権を守る義務から免除する このような体制のために、自分の息子たちを戦争に送り出すことを どうして受け入れることができるでしょうか ?
27 :31
くじ引きが始まった1793年3月10日から、フランス全土において徴兵拒否は暴動に転じました。民衆の激しい怒りは引き返し不可能なところまで来ていました。数時間のうちに西部全域が炎上しました。
反対の結果もありました。ロワール河南部では 共和国の当局者たちは指揮がまずく、力が及ばず反乱を鎮圧することができず、数日間で反乱の規模は巨大なものとなりました。反乱の指導者たちが、間もなく広大な領域をコントロールしたためです。
28:12
ブルターニュでは違っていました。
そこではアンシャン・レジームの官僚で、新体制に加担したカンクロー〔Canclaux〕という高官が指揮していました。彼は女性と子供に対し射撃させることもためらわず、まだ組織化されていなかった反乱者たちを容赦なく鎮圧しました。
それに続く報復は、徹底抗戦する反逆者たち(ジョルジュ・カドゥーダル〔Georges Cadoudal〕、エメ・デュ・ボワギー〔Aimé du Boisguy〕、ジェローム・ド・ボワシャルディ〔Jérôme de Boishardy〕といった反逆者たち、彼らについては後でまた触れますが)、彼らを逃亡させ反逆者たちを裁くために、特別裁判から逃れるために地下に潜ることを強いました。
28:59
1793年3月末、ロワール河北部では反乱は失敗に終わったかのようでした。
実際のところ当局がそれを理解するには時間が必要でしたが、その沈静化は偽りのものでした。確かに徹底抗戦を選んだ戦士は多くありませんでした。最初は数百人程度に過ぎませんでした。
マイエンヌ地域では ジャン・コトローと兄フランソワの一味、
オート=ブルターニュにおいては ヴィトレとフジェールの間に たった14歳のエメ・デュ・ボワギーの一味、
サン=ブリユー周辺では ボワシャルディの一味、オルヌでは ミシェル・ムーラン〔Michel Moulin〕の一味。
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ふくろう党各勢力、代表的な指導者と関連地の位置
彼らは地下に潜り、森に身を隠して政権と戦う機会を待っていました。このような戦士が少なかったものの、田舎では住民のほとんど全員が、これらの戦士たちの戦いを 全力で支え助ける覚悟がありました。
そして、戦場となっていく故郷の田舎を 完全に知り尽くしているこれらゲリラ戦士を破ることは、政権にとって極めて難しい というより ほぼ不可能でした。
【 4-2:西部地方の反乱/ロワール河南部(ヴァンデ:カトリック・王党軍)】
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30:20
この時 革命側の懸念は、ロワール河南部の別の前線に向けられていました。
ヴァンデ県出身の人々は反乱者の一部だけだったにも関わらず、 ヴァンデ人〔Vendéens〕と呼ばれ始めていましたが、これらの反乱者に対して 戦場経験の乏しい革命軍が送られてきて、革命軍は簡単に敗れ、反革命軍は 彼らに不足していた武器と大砲を手に入れることができました。そしてこの地方の中くらいの都市を占拠することもできました。
革命勢力は、国民公会でジロンド党議員たちが逮捕された後、連邦主義者の抵抗に直面しているだけでなく、外国の対仏同盟も、彼らに対し欧州勢力を集結していました。
革命勢力がとくに恐れていたのは、西部の反乱者たちが大西洋岸の港を占拠し、イギリス海軍の支援のもと亡命貴族軍の上陸を許すことでした。
彼らの最優先課題は、大西洋からの上陸を阻むことと、革命軍の圧制から解放された領土内に ヴァンデ軍兵士を閉じ込めることでした。いったん彼らを閉じ込めれば、そこから出ることができず その地域は罠に代わっていくだろう、という目論みでした。
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ヴァンデ軍(カトリック・王党軍)、代表的な指導者と関連地の位置
31:45
『カトリック・王党軍〔l’armée catholique et royale〕』は3か月にわたって、栄光に満ちた予想外の軍事的勝利を収めましたが、1793年6月29日、ナントを占拠することには失敗しました。この失敗でカトリノー最高司令官〔Cathelineau〕の命が奪われ、ヴァンデ軍にとって死活にかかわる海への出口も 奪われました。
それにより、反革命軍の拡大は一気に止まり、それ以後 彼らはもとの歴史的領地に閉じ込められ、まもなく共和軍に包囲されていきます。
この現実について、タルモン公ははじめ、王党派の将軍たちの何人かは認識していました。
彼はブルターニュ連合との繋がりを結びなおそうと試みた後、6月にカトリック・王党軍に合流し、敵意は示されはしたものの(彼の名前と名声は邪魔だったためですが)騎兵隊の指揮権を譲ってもらいました。
そしてタルモン公は正当にも、今できるうちに、共和軍の締め付けを打ち砕かなければならない、と訴えました。
小さな町で自殺的な消耗戦を続けるよりも、ロワール河右岸へ渡り、ブルターニュとメーヌの支援を求めに行かなければならない。彼らは反革命勢力に新たな息吹を与えてくれるだろう、と訴えたのです。
そうすれば英仏海峡沿いの港へ道が拓けるだろう…ー
カトリック・王党軍の参謀部はライバルの派閥で分裂しており、軍の推進者であり 唯一の支えであり あまりに輝かしい将軍であり侯爵である ド・ボンシャン〔Bonchamps〕に対する嫉妬から、この計画に反対しました。
33:34
同じ時期、国民公会は最も優秀な革命軍をヴァンデに送り込みました。
その軍隊は、マイアンス《マインツ》で 1年間は国境として使わないという約束に反し、軍事上の功績をあげたものの、降伏したところでした。
1793年8月末、この精鋭部隊がヴァンデに集結しました。彼らは強姦、放火、殺人といった手段を使い、たちまちパニックを引き起こしました。炙り焼きを前に、動転して逃亡せざるを得なかった市民は まもなく10万人を超え、カトリック・王党軍の後ろに並んだため、王党軍の動きにとって足枷となりました。
34 :18
10月半ば、ボンシャンとタルモンの戦略・英仏海峡への進撃は却下されましたが、ロワール河右岸に陣地を設置することだけは許可されました。ブルターニュに派遣するため、そこに志願兵の小部隊を置くのです。
参謀部はヴァンデ地域で総力をあげて賭けに出、ショレという街の手前で決戦に挑むことを決めました。
1793年10月17日、この対決は敗北しました。敵に追い詰められ 市民でごった返しながら、カトリック・王党軍はロワール河へ引き返しました。追いかけてくる殺し屋たちとの間に河を挟めば、と考えたのです。
この敗北の時、指揮者はいませんでした。
最高司令官デルベ〔d’Elbée〕は重傷を負い辞任したところでした。後任になるはずだったド・レスキュール侯爵〔Lescure〕は頭を撃たれていました。ボンシャン将軍も手榴弾で腹を裂かれ瀕死の状態でした。
緊急に将校たちは、象徴的な選択のなかで 21歳の青年アンリ・ド・ラ・ロシュジャクラン〔Henri de La Rochejaquelein〕を最高司令官として選びました。彼の無謀な勇敢さは、若さと経験不足を補うものではありませんでした。
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緊急事態のなかでタルモン公は、彼の保護下にあるこの群衆を救うことしか考えていませんでした。自分の先祖の土地で共和軍に打ち勝つため、助けが得られるだろうという希望を持って、パニックに陥った人々を対岸へ渡らせる、という無謀な賭けをしたのです。
こうして1793年10月18日、ブルターニュ方言で“北西の風”を意味する 『ギャレルヌ〔Galerne〕』作戦が始まりました。
【 5:ヴァンデのカトリック・王党軍の北上】
36:42
その作戦は敗北から始まりましたが、勝利に終わり、王党派がパリに向かい 幼いルイ17世を解放し、歴史の流れを変えることも可能になるかと思われたほどでした。
タルモン公が予想していたとおり、コトローとボワギーのふくろう党によって補強されて、カトリック・王党軍はイギリスの援軍が武器をもたらし、市民を避難させてくれるのを期待して、海岸へと進みました。軍を阻むものは何もありませんでした。マイアンス《マインツ》軍でさえ、10月末、ラヴァル近郊で2度の戦いを交え全滅しました。
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ヴァンデ軍のギャレルヌ遠征・往路(1793年10月中旬~11月中旬)
しかし裏切りと不運によって、その勢いも失われました。共和派の転向者の誤った情報を信用し、ヴァンデ軍はグランヴィル市を奪うことを決めましたが、海中に打ち込まれた巌のようなこの街は、何度攻撃しても持ちこたえました。
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戦いで炎に包まれるグランヴィル
「L'incendie de Granville par les Vendéens」Hue作/出典元:ヴァンデ歴史館(ル・リュク・シュル・ブローニュ)
引用元:ウィキメディアコモンズ
37:42
イギリス海軍は嵐のせいで遅れ、約束の場所に来ていませんでした。疲れ果て、意気阻喪し、暴動寸前となっていた兵士たちはロワール河へ戻ることを要求しました。手の届くところまで来ていた勝利の恩恵を断念し、譲歩せざるを得ませんでした。
11月20日から22日、ヴァンデ軍はポントルソンとドルとアントランで 勇壮な勝利を収めましたが、飢えに苦しみ、チフス、天然痘、インフルエンザ、赤痢に襲われ、雨と寒さのなか敗走の体で退却することとなりました。高齢者、怪我人、女性、子供たちは 数千人単位で亡くなり、あるいは共和国軍の支配下に落ち虐殺されました。
12月23日、ヴァンデ軍の生き残りが サヴネーの沼沢地で座礁していたところ、ウェステルマン〔Westermann〕の軍が全滅させました。勝ち誇った彼はその夜、国民公会宛てにこう書きました。
「ヴァンデ兵はもう存在しない。彼らは我々の自由のサーベルの下で死んでいった。私の馬の足の下で、子供らを圧し潰した。女たちは虐殺した、この女悪党どもはもう悪党を産まない。捕虜は一人もいないから、私を非難する者はいない。彼らには自由のパンを与えるべきだったろう、憐れみは革命者の感情ではない。」
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ヴァンデ軍のギャレルヌ遠征・復路(1793年11月中旬~12月下旬)
39:23
1793年12月13日、タルモン公はル・マン戦のあと、ふくろう党の精鋭部隊を 無駄に犠牲にするわけにはいかない、と判断しました。ル・マンでは、彼はふくろう党員だけと共に 数時間にわたって共和国軍の攻撃を食い止め、市民を逃す時間を稼ぎました。
そしてコトローとボワギーは、マイエンヌとイル=エ=ヴィレーヌの隠れ家に戻り「好機が来るまで待機せよ」という命令を出しました。彼はまた、カトリック・王党軍が散り散りになった場合、仲間と合流し戦いを再開することを約束しました。
しかし不運が襲いました。1794年1月1日、タルモン公は逮捕され、27日、ラヴァルでギロチンに掛けられたのです。28歳でした。この知らせを受けたジャン・シュアンは、涙ながらにこう叫びました。
「この人ひとりの死は、我々全員の死だ。ふくろう党の終わりだ」
コトローは1つの点では当たっていました。タルモン公の死は、ふくろう党から彼らを連合できる唯一の指導者、その家柄と人脈により 国際舞台上でふくろう党を認めさせる唯一の指導者を奪ったのです。
しかしこの喪失がどれほど悲惨なものであったにせよ、この運動が終焉の鐘を鳴らすことにはなりませんでした。
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1794年2月28日、地獄部隊によるル・リュク=シュル=ブローニュの虐殺を描いたステンドグラス
(Massacre des Lucs-sur-Boulogne le 28 février 1794)Fournierによる/出典元:プティ・リュク教会/引用元:ウィキメディアコモンズ
41:00
1794年初頭、反乱を起こした西部地方に対して恐るべき鎮圧がなされ、前代未聞の暴力と残酷さで行われました。
ロワール河北部ではクレベール将軍〔Kléber〕が指揮し、彼の全権限をもって反乱に対抗したため、恐ろしい規模となりました。南部ではまさに、 “地獄的”と呼ばれた皆殺しの縦列部隊〔colonne infernale〕が、12も展開しました。
冬から春の始めにかけて、流れ作業で死刑が執行されました。反乱に関わったという容疑、指示した・手伝ったという容疑、あるいは単に反乱者の親戚というだけで、真偽を問わず数千人単位で死刑にされました。
こうして4月末、コトローという名字であるという罪だけで、ジャン・シュアンの二人の妹・ペリーヌ〔Perrine〕とルネ〔Renée〕が、ギロチンに掛けられました。死刑判決の法定年齢は16歳で、末の妹は15歳でしかありませんでした。彼女を断頭台に送るため、判決書には生年月日を書き込みませんでした。
法律に反して処刑されたのは、彼女だけではありませんでした。幼い子供も、妊婦も、容赦なく殺されました。
42:26
その目的は、都市も田舎も恐怖に陥れ、革命に対して もはや誰も立ち上がらないようにすることでした。
ところが逆のことが起こりました。西部全域において、聖なる怒りに燃えた男たちが、屈することなく再び武器を取りました。
それは怪我を負った マイエンヌの若い農民ジャン=ルイ・トレトン〔Jean-Louis Tréton〕が、疲弊した仲間にぶつけていた言葉のとおり、「キリスト教徒は戦いもせず、これほど卑劣な行為がなされるままにしている、などと言わせない」ためでした。
トレトンはサヴネー敗北の生存者であり、24歳で、 “銀の脚〔Jambe d'argent〕”の戦いの名のもと、ふくろう党の最も美しく最も純粋な人物のひとりとなります。
【 6:ふくろう党とピュイゼ】
43:15
1794年5月、ふくろう党はメーヌとブルターニュの田舎を支配していました。恐怖政治は、無学な農民の英雄的行動よりも先に 息切れしていました。
これらの農民たちだけが、ほとんど彼らだけが、ほんのわずかな武器を持って ロザリオにすがり、迫害者であり虐殺者である権力を前に 思い切って立ち上がったのです。
1794年7月28日、ロベスピエール〔Robespierre〕は断頭台に上りました。当日、ジャン・コトローは 身籠っていた義理の妹を共和国軍から救い出し、致命的な傷を負い亡くなりました。
マイエンヌ地域では、トレトンと他の人々が戦いを継続しました。フジェールのボワギー、北部沿岸《コート・デュ・ノール県》のボワシャルディ、サヴネーの生き残りで オレー地域の最初の反乱者のひとりであり モルビアンに戻ってきていた若きジョルジュ・カドゥーダル達です。
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44:23
若干の例外を除き これらの武装グループの弱点は、互いに認識しあえず、それゆえ敵に対する共同作戦を企てることができなかった、ということでした。自由に対する遺伝的な思考から、彼らは従うことも服従することも好まなかったのです。
かつて タルモン公からの命令を受けることに同意していたのは、タルモン公の高貴な家柄に対する敬意、というよりも 彼の並外れた勇敢さと戦略的才能への尊敬によるものでした。
別の新たな指導者を選べば、自分たちの独立を失うことになるかもしれず、彼らはそれを望みませんでした。
ふくろう党員の大部分はとても若く、読み書きができなかったジャン・シュアンのように 彼らの多くは教育が欠けており、通り過ぎつつある戦い全体のビジョンが不足していました。この地域における共和派勢力の消滅と、小教区教会におけるカトリック礼拝の復興ということは、より想像しにくいことでした。
裕福な農家の息子で教育も受けた ジェローム・ド・ボワシャルディやド・カドゥーダルのように、彼らの戦争にかかっているものについて より広いビジョンを持っていたとしても、彼らが嫌う強制や制約を受けることなく どのような戦略が適応可能かは、あまり分かっていませんでした。
45:57
しかしながら、一人の男が、その資格の全くない男が ブルターニュで総司令官の役割を演じようと 画策していました。50代のその男は、最も年齢が高くても30代になったばかりだった ふくろう党の将校たちからすると、老人に見えていました。
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ジョゼフ・ド・ピュイゼ〔Joseph de Puisaye〕というこの人物は、ノルマンディーの貴族の家に生まれ、革命当初は進行中の変革を支持し ジロンド党陣営で政治的キャリアに着手しました。
この選択は最悪なものであったことが明らかになり、友人たちが逮捕され ギロチンに掛けられ 追放されていきます。ピュイゼはカーンに避難し、追放された連邦主義者たちのために反乱を起こし、やむ追えず(というのも彼は癒しがたい卑怯者だったので)バラバラな軍隊の司令官として選ばれ、国民公会に抵抗する者とみなされていました。
1793年7月、初めての対決は敗北に終わりました。パニックの中、馬でブルターニュまで疾走し レンヌ近辺の森に隠れました。
47 :17
1794年1月、フランス沿岸地方とイギリスとを結ぶ海軍の繋がりを 命がけで保証する一通の郵便が届きます。
王党軍の司令長官に宛てられた イギリス当局からの緊急の書簡の使者は、正しい宛先人(おそらくはタルモン公でしょう)が、その時彼は投獄されており、見つけることが出来ず諦めて、王室の大義の幹部であると名乗る この見知らぬ男に、この書簡を渡してしまったのです。
ピュイゼは王党派ではありませんでしたが、共和派に組して失敗したので、この機をとらえて王党派になりました。
政治家時代に役立った動じない図々しさを発揮し、王党軍の司令長官の称号を不当にも名乗り イギリス宛てに返事を書き、援軍と武器と金を要求しました。
それから、この彼に宛てられたものでないこの書簡、しかし彼に相反する正当性を与えてくれたこの書簡を手にし、ブルターニュの若いふくろう党の首領たちに 自分の存在を認めさせようと企て、彼らを連合することが彼の権威下にある と主張しました。
実際のところこの作戦はあまりうまくいかず、若者たちはこの人物はあまり気にせず、自分たちでふくろう党の蜂起を続けていました。
これは間違いでした。この男の獰猛な野心を図り損ねていました。ピュイゼは成功のための 最後のチャンスに来ていたのです。彼はこの機会を手放そうとはしませんでした。
1794年の秋、暴力と恐怖の数か月が過ぎ、状況が少し鎮静化していたために なおさらのことでした。
【 7:テルミドール政権下での“和平”】
49:06
ロベスピエールが消え、思っていた以上に深刻だった このふくろう党の問題を片付けるのは、テルミドール政権に受け継がれました。
西部に配属されたばかりのオッシュ〔Hoche〕は国民公会に宛てて、「ブルターニュとメーヌは共和国の支配から逃れた 失われた土地である」と描写しています。
反乱はノルマンディーとトゥレーヌ地方にまで広がる恐れがあり、ふくろう党とヴァンデ軍は通じ合い 結託する可能性があること、沿岸地方ではイギリス軍の行動も懸念されることが 報告されています。
「反乱は政治である以前に宗教である」ということを最初に理解したのが、オッシュでした。
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彼は、常に根本的にカトリックに敵対的であった国民公会に、そのことを認めさせました。
1794年の終わり、恐怖政治と大虐殺の戦略が 西部では失敗だったことが明らかになって以降、戦いを止めるためには カトリックの問題と王室の問題を切り離すしかありませんでした。
反抗的な地方において、宗教の自由に関し 多くのことを約束し ほとんど果たさない、というのがそれ以来 民政と軍事当局の基本路線となりました。
50:25
テルミドール派にとって和解した方が得策でした。和平を利用し 約束を守るつもりはなく、カトリック礼拝の復興を約束しました。反革命派にとっては、交渉すれば失うものが多かったのです。
しかし1794年の終わりに交渉が始まりました。まずはヴァンデからでした。
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フランソワ=アタナス・ド・シャレット・ド・ラ・コントリ
「François-Athanase de Charette de La Contrie」Guérin作/出典元:ショレ歴史美術博物館/引用元:ウィキメディアコモンズ
ド・シャレット将軍〔de Charette〕は 人民すべての抵抗を具現化した人物で、あまりにも誠実な人だったため、彼の性質には馴染みのない狡猾さを 敵の中に見抜くことができず、パリからやってきた政治家の口約束を信じてしまいました。
その約束とは、彼らによれば、大したことを要求しない降伏と引き換えに 幼きルイ17世とその姉を解放する、というものでした。彼がそのために戦ってきた 幼き国王の解放を手に入れた と確信して、1795年2月17日、将軍は和平協定に署名しました。
その協定が、共和国を認める代わりに保証したものは、カトリック礼拝の自由、非宣誓司祭・反乱者・帰国した亡命貴族の安全保障、ヴァンデ地方復興のための賠償金の支払い、税額控除、徴兵の中止 などでした。
51:51
ふくろう党は、1794年12月、共和国との交渉に入っていました。
帰国したばかりの亡命貴族コルマタン〔Cormatin〕は、ブルターニュの王党軍の司令長官に諮らずも任命され、危険極まりないこの任務から逃れたい、と思っていました。彼はふくろう党員にしつこく言い立て、1795年3月30日、約20人の将校たちが和平協定の写しに署名しました。
最も重要な将校たちは、あれだけ多くの仲間が命を落とした大義に対する 途方も無い裏切りだ、として署名を拒否しました。カドゥーダルは、異議申し立ての先頭に立っていました。
それは正しい判断でした。これらの交渉は騙しの和平だったのです。
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共和暦3年フロレアル1日(1795年4月20日)の和平
「Journée du 1er Floréal An III (ou 20 avril 1795)」Girardet作/出典元:カルナヴァレ博物館
引用元:パリ市博物館ポータルより-LES IMAGES LIBRES DE DROITS集
52:44
革命政府の心の中では、重要なのは スペインとの和平を結ぶのに必要な時間を稼ぐことでしか ありませんでした。スペインと和平が結ばれれば、内戦のための軍隊を 本土に戻すことができます。
しかし、あまりにも多くの犠牲と苦しみのあとでやってきた この休戦協定は、戦争に疲れ果てた多くの人々の心を武装解除しました。革命政府の言葉を信じるとすれば、宗教の自由は保障され、もはや同じ理由で戦ったり死んだりすることもなくなりました。
彼らに再び武器を取らせることは 難しくなりました。
【 8:再蜂起/キブロン戦】
53:26
6月8日、タンプル塔でルイ17世が亡くなったとの報せに、シャレットは真実を悟りました。革命軍は、哀れな幼子が死にかけているのを知りながら ルイ17世の解放を約束し、彼を馬鹿にしていたのです。
こうした状況のなか、待ち望んでいた報せが届きます。
亡命貴族軍がイギリス海軍に連れられて到着し、おそらくはまもなく アルトワ公その人と合流する という報せに、反乱者たちは失いかけていた希望を取り戻します。
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キブロン半島の位置
54:01
1795年6月27日、イギリス艦隊はキブロン半島の前に錨を降ろし、護送していた3000人を上陸させ始めました。イギリスの役割はそこまででした。フランス人は、宿敵がフランスの国土に足を踏み入れることを 拒んだのです。
上陸を援護するために、数千人のふくろう党員が駆けつける予定でした。直ちに行うべきことは、罠になりやすい半島から立ち去ることでした。内陸に入り、王党軍を結集し、都市を占拠しパリに進軍することでした。
しかしそれは実行されませんでした。王党軍の将校たちが懇願したにもかかわらず、上陸がこれほど遅れたのは、王党派パリ支局〔l'Agence royaliste de Paris〕の利害に反していたからでした。
王党派パリ支局 というのは、諜報とプロパガンダと扇動を行う本拠地で、プロヴァンス伯〔Provence〕(以後ルイ18世)に近い組織でした。王政復古は地方による武装運動によっては実現されず、むしろ不満の声が鳴り響いている 首都における政治的裏工作によってこそ実現される、と確信していました。
上陸を防ぐことはできませんでしたが、デルヴィリー〔d’Hervilly〕を介入させ、ブルターニュ総司令官ピュイゼに反対するよう説得し上陸を妨害しました。
55:29
リーダーたちの喧嘩は 軍事行動を麻痺させ、7月初め、王党軍はキブロン半島に向かいました。
オッシュが出来る限りの軍隊を集め、半島へ向かおうとしていました。このままだと、ネズミ捕りにネズミが掛かったように追い込まれそうでした。
カドゥーダルは、一部の市民と兵士を海上から避難させました。
目的は逃亡することではなく、出来る限りのふくろう党員を動員し 陸路で戻り、共和国軍を背面から攻撃することでした。その作戦は良かったのですが、またしても不運に見舞われ、裏切りが繰り返され、7月16日、約束の場所にたどり着くことができませんでした。
そこでは亡命貴族たちは、援軍がまだ到着していないと理解する前に、後退することもできずに共和国軍によってその場で殺されました。
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1795年7月の作戦におけるタンテニアック隊の おおよその進路
56:28
イギリス軍が海上を支配していたので、再び乗船してヴァンデ沿岸に接岸し、シャレットに助けに来てもらうことはまだ可能でした。ピュイゼは決して来ない援軍を待ち、情勢を悪化させることを選んだのです。
7月20日の夜、激しい嵐を機に共和国軍の特攻隊が、半島の入口を閉ざしていた城塞を占拠しました。
ピュイゼはキブロン半島が失われるのを見て イギリスの船で避難し、兵士たちを彼らの運命に任せて見捨てました。荒れ狂う海のなか、避難できたのはほんの一部でした。
不幸にも、イギリスの船は船足《喫水》が長すぎて、海岸に近づくことができませんでした。靄もかかっていて大砲を撃つこともできませんでした。
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共和暦3年テルミドール3日(1795年7月21日)、キブロンにて
(Journée du 3 Thermidor An III (21 juillet 1795))Raffet作/出典元:カルナヴァレ博物館
引用元:パリ市博物館ポータルより-LES IMAGES LIBRES DE DROITS集
続く2か月のうちに、キブロンで捕まった王党軍の捕虜は 負傷者も含めて、ほぼ全員 武器で殺されました。その中には、ドル司教のド・エルセ猊下〔Hercé〕と従軍司祭27人が含まれていました。
こうした軍事的大敗北と それに続く大虐殺も、ふくろう党を全滅させることにはなりませんでした。
57:54
ブルターニュでは、1795年6月にボワシャルディが殺され、7月 ド・タンテニアック騎士〔Tanténiac〕が殺され、ピュイゼは卑怯な行為ゆえに信用を失っており、キブロン半島のエピソード全体にわたって名を上げたカドゥーダルが ブルターニュのふくろう党全体に 影響力を及ぼすようになり、異論ある者は誰もいませんでした。
それは、ブルターニュに馴染みのない貴族、というのは決定的な欠陥だったのですが、それによって強いられるあらゆる支配を拒む 田舎者・農民・民衆の反乱の勝利でもありました。
それ以後ジョルジュ・カドゥーダルは、国外追放の王族たちとイギリス政府と交渉する 唯一のブルターニュ側の代表であろうとし、実際そうなりました。
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【 9:貴族の司令官/マイエンヌの悲劇、ノルマンディーのフロッテ】
58:52
マイエンヌでも 論理的には、“銀の脚”をもったジャン=ルイ・トレトンを中心に、同じ展開になるはずでした。
彼もまた、人気と軍事能力の絶頂期にありましたが、1795年10月28日の戦いで殺されました。
マイエンヌ出身の将校たちの中には 器の大きな人物は現れなかったので、将校たちは、キブロンの戦場から生き残った少ない貴族に マイエンヌ地域のふくろう党の司令官になるように頼み、貴族たちが司令を引き受けることになりました。
これら貴族出身の司令官たちは、ゲリラ戦に疎くなかなか馴染めませんでした。また、あまりに自由で平等すぎる兵士たちの在り方にも、慣れることができませんでした。ふくろう党員たちは、亡命者のなかで 実際のところ純粋な革命の産物であり、古くからの秩序と社会的障壁(つまり階級間の壁)とを断絶しており、一種の“王党派のジャコバン”であると非難されていたほどでした。
賢明さに欠ける人々は、兵士たちに軍の規則を押し付け、あるいはさらにひどいことに 彼らを雇われ兵にしようとしたのです。一方ふくろう党員たちは、常に代償無しで戦ってきましたし、彼らが擁護する価値観への愛着と、誠の献身によって戦ってきたのです。
戦略面での結果は確かでなく、心理面では大失敗でした。それは高い志を持つ志願兵を、普通の徴収兵に貶めることだったからです。このことにより、多くの兵士たちがふくろう党の大義から離れることになりました。
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1 :00 :44
実際のところ、こうした組織再編から利益を被った 唯一のふくろう党は、ノルマンディーのごく小さな逸話的な集団で、ルイ・ド・フロッテ〔Louis de Frotté〕という並外れた指導者の影響下で 突如大躍進を遂げました。
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ルイ・ド・フロッテは1766年にノルマンディーに生まれ、革命初期に亡命貴族の将校となって、彼は故郷に帰り 革命に対し故郷の人々を蜂起させる、という野心を抱いていました。
そうするために彼は、ピュイゼ侯爵によってその任務を委任してもらい、国民公会とのセッションの最中に本土に上陸しました。賢明にも彼は交渉には介入せず、1795年、戦争が再開されるや ノルマンディーに赴きました。
ノルマンディーは 西部の他の地域ほど熱心ではなかったし、現地の共和派当局は国民公会に敵対的であったため、革命派の過激行為を避ける術を心得ており、より賢明な支配を行いました。
それゆえ、ノルマンディーにおける反乱の動きは、オルヌ県のいくつかの村を除いて ほとんど無く、サン=ジャン・デ・ボワ村の刃物職人ミシェル・ムーランの一味は、2年前からふくろう党のゲリラ戦をしていました。
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ノルマンディー地方西部、オルヌ県とその周辺
1:02:26
フロッテが粘り強さと力と展開を与えることになる、象徴的出来事が起こります。
彼は数か月でノルマンディーでのゲリラ部隊を組織し、オルヌ県がその中心となりつつ、マイエンヌ北部とコタンタン南部とカルヴァドスのはずれにまで、反乱を広めました。その目的は、シャレットに風を入れること(援助すること)にありました。ヴァンデでは、共和国軍の全軍力が シャレットに向けて集中しており、オッシュは共和国軍一部をロワール河北部へ送らなければなりませんでした。
ノルマンディーにおけるその最初の反乱は、1796年、シャレットの処刑の後 完全に断ち切られ重要な効果をもたらさなかったとはいえ、誠意と献身と忠誠を尽くす人々を結集したという、大きな功績を生み出しました。
1796年7月、フロッテは和平協定に署名することを拒み、戦いを再開する可能性を保ちながら 時を待っていました。
【10:対ボナパルト】
1:03:28
1799年の夏まで、フロッテは じっと堪えていました。
その年、人質に関する法律が採決され、政権の反乱者を逮捕できない場合、親・子供・兄弟姉妹を逮捕し、身内の行為の責任を負って処刑されることが認められました。教皇ピオ6世が逮捕され、ヴァランスで亡くなり、西部の反乱を新たに起こすことは不可避となりました。反乱は10月15日まで延期されました。
ノルマンディーではフロッテが全力を尽くしたにもかかわらず、不運がしつこく付きまといましたが、それ以外の場所ではどこでも 反乱は勝利から勝利へと勝ち進み、初めてナントやル・マンやサン=ブリユーといった大都市を同時に占拠することに成功しました。
これらの大都市を保持することができなかったにせよ、こうした戦力が実演されたことに、政権と世論は激しい衝撃を受けました。
1:04:30
再び勝利は 王党派の手に届くところにあるように思われ、また彼らの手を逃れました。
11月9日(ブリューメル18日)、ボナパルト〔Bonaparte〕が政府を倒し フランスの救世主として振る舞い始めました。王党派は機会を逃しました。
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第一統領 ナポレオン・ボナパルト
「Portrait de Napoléon Bonaparte en premier consul」Ingres作
出典元:クルティウス博物館/取得元:ウィキメディアコモンズ
三人の統領-第一統領ボナパルト、第二統領カンバセレス、第三統領ルブラン「Bonaparte Premier Consul. Cambaceres Second Consul. Lebrun Trois[ièm]e Consul」Chataignier作/出典元:カルナヴァレ博物館
引用元:パリ市博物館ポータル-LES IMAGES LIBRES DE DROITS
王党派の仲間たちは、第一頭領が 隠れ王党派だと早合点していましたが、フロッテは警戒していました。ボナパルトが開始した交渉も 誘惑の試みも、フロッテには効果がありませんでした。こうした躊躇いにより、ノルマン人の司令官は 政府にとって倒すべき人物となりました。
1800年1月末、メーヌの総司令官ブルモン〔Bourmont〕とブルターニュのカドゥーダルは 軍事的に敗北していたため、交渉に入る決心をしました。交渉したとしても、すぐに戦いを再開できると確信していたのです。
彼らは間違えていました。実際この和平交渉は、政府が宗教上の問題について 約束を果たすことを含んでおり、その後ふくろう党が再び立ち上がることはありませんでした。
明晰なフロッテはそのことを理解していました。彼が交渉に入ることを決めたのは、1800年2月初頭になってからでした。15日、主な将校たちに伴われ、通行証を持って交渉するため、アランソンに赴きました。
全員が戦争法無視で逮捕され、18日、見せかけの裁判の後、銃殺されました。
1:06:06
3月、フロッテの暗殺が反乱者に対する最大の警告だ とみなしていたボナパルトは、西部の王党派の司令官たちを迎え、約束と脅迫を用い、内戦が再燃するのを回避しようとしました。
その作戦は、カドゥーダルを除いては 上手くいきました。貴族びいきのボナパルトは 貴族出身の司令官たちに対して愛想が良く、農民出身のカドゥーダルに対しては 愛想良くする必要はないと判断しました。
彼は「重要な人物をひどく侮辱した」と警告され、カドゥーダルとその後 一対一で再び会いました。
カドゥーダルを買収しようとしたり脅迫しようとしたりする その態度は、カドゥーダルには馴染みのないもので、激しく怒って面会から出ていきました。
「この小さな男を自分の太い腕で捕まえ 窒息するまで締め付けてやろう、とする気持ちをなんとか抑えた」と、彼は後に打ち明けています。
他の司令官たちは全員諦めて、地位や賞与を貰って丸め込まれましたが、ブルトン人の彼には一つの目的しかありませんでした。4度目の反乱を起こすことです。
4月に彼は、ロンドンで王族たちと合流することに成功し、彼らは心からホッとして彼を迎え入れました。少なくとも一人は、彼らを見捨てていない人間がいたのです。
【11:カドゥーダルの執念】
1:07:45
ボナパルトの台頭を懸念していたイギリス人は、彼に援助を約束していました。カドゥーダルは1つの条件を出しました。アルトワ公とその王子たちが反乱の先頭に立つことです。それが、兵士を動員する唯一の方法だったからです。アルトワ公は同意しました。
6月3日、ジョルジュ・カドゥーダルはブルターニュに戻り、反乱の準備に取り掛かりました。しかしその反乱は起こりませんでした。6月14日、マレンゴでボナパルトが決定的勝利を収め、王党派も含めてフランスの世論の大多数を転換させたため、イギリスは反乱から引き揚げることになったのです。
ブルトン人たちは同じように振る舞うことを拒みました。
第一頭領が和平を獲得したことを自負しないよう、カドゥーダルの親友だったピエール・メルシエ中尉〔Pierre Mercier〕は「ふくろう党の反乱はいつでも起こすことが出来る」とする抵抗運動を宣言しました。
それはすでに2度の反乱の間に試した作戦で、敵を絶えざる不安の中に置いておくという作戦でした。ただしそれ以上は先に進まない作戦であり、また、様々な不手際も重なって、政権がすべてのふくろう党員を 強盗の罪で告発する理由を与えてしまいました。
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するとカドゥーダルは、ボナパルトを拉致する計画を打ち出しました。ボナパルトさえ居なくなれば 政権が崩壊する、と確信していたからです。この目的で彼はパリへ数人の将校たちを送り込み、拉致を実行する計画を立てさせました。
問題は、これらの男たちが独断で、国家元首を拉致するのではなく 暗殺することにしてしまった、ということでした。
1800年12月24日の夜、国家元首がオペラに行くために通る パリのサン=ニケーズ通りで、車に爆弾を仕掛けて襲撃する計画が実行されました。爆弾は確かに爆発し、通行人10人ほどが亡くなり、30人ほどが負傷しました。しかしタイミングが遅すぎました。ボナパルトはすでに通り過ぎていたのです。
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サン=ニケーズ通りのテロ事件・地獄装置(時限爆弾)への着火
「La machine infernale」Bonnefoy作/出典元:カルナヴァレ博物館/引用元:パリ市博物館ポータルより-LES IMAGES LIBRES DE DROITS集
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サン=ニケーズ通りのテロ事件・装置の爆発
「Rue Nicaise - 3 Nivose an 9 de la Rép」Anonyme作/出典元:カルナヴァレ博物館
引用元:パリ市博物館ポータルより-LES IMAGES LIBRES DE DROITS集
警察大臣フーシェ〔Fouché〕が王党派の有罪を証明するまで、時間はかかりませんでした。確かに正当化できないこの事件を、フーシェのプロパガンダは巧みに利用しました。
「ふくろう党は罪のない人々を虐殺することに固執している」として彼らを貶めました。
ルイ18世も、言語道断なこの行為の犯人を断罪しました。唯一逮捕を免れたのは、ド・リモエラン騎士〔de Limoëlan〕という人で、彼は後悔の念に苦しみ修道院に入って 合衆国で司祭となり、聖徳の香りの中で亡くなりました。
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ボナパルトも世間も、その事件をカドゥーダルのせいにして、彼を許すことはありませんでした。カドゥーダルを公衆の敵ナンバーワンに仕立て上げ、国王の将軍は倒すべき人物となりました。そのために頭領警察は何者にも尻込みしませんでした。
無力な状態に置かれ追い詰められたものの、まったく観念する様子もなく、カドゥーダルは6月にイギリスへ渡りました。
教会でさえ、ふくろう党を見放しました。「政教協約が間もなく結ばれる」という報せに、忘れっぽい司祭たちはボナパルトの側に着きました。そしてゲリラ戦を維持するために必要な 現地の住民たちも、彼らの司祭とミサが帰ってきて安心し、彼らを見捨てつつありました。
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イギリスはカドゥーダルを迎えました。「もしかしたらまた役に立つかもしれない」と思ったからですが、大人しくしているように言いつけました。彼らはアミアン和平の交渉中であり、第一頭領を殺そうとした “テロリスト”をもてなすことで、和平を危うくすることはしたくありませんでした。
【12:Potius mori quam foedari】
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1803年の春、英仏の敵意が再開し、ふくろう党がまだ役に立ち得ると気付いた時、イギリスは持ち札を変えました。第一頭領を拉致する、という考えは、それほど悪くなかったのです。
イギリス政府は、この “重要な一撃”を加えるための手段を、ブルトン人に提供することを決めました。
ボナパルトと警察大臣フーシェは、統領政府から帝国への転換を強いるため、ナポレオンの命を狙う事件を捏造することを必要としており、どれほどイギリスの情報部を裏で操ったのでしょうか。
それを言う事はできませんが、1803年8月23日、カドゥーダルと彼の仲間たちがフランスに上陸したとき、尾行され監視されていた可能性があります。カドゥーダルが逮捕されたときに言った通り、彼は国王にフランスを返したかったのですが、結局フランスに皇帝を与えることになってしまいました。
その“重要な一撃”を加えるには、モロー将軍〔Moreau〕の助力が必要でした。
彼は熱心な共和派でしたがブルトン人で、ボナパルトの公然たる反対者だったため、政権の臨時代理に就いて欲しかったのです。彼は拒否しました。そして計画の実現も無効となりました。
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ボナパルトはふくろう党の隠れ家に警察を送り込むことを、それ以上待ってはいませんでした。
カドゥーダルの使用人が逮捕され、主人の隠れ家を白状させるため拷問が行われた《1804年》2月3日~1804年3月9日、カドゥーダルの逮捕まで1か月、拉致の陰謀に関わった王党派全員を逮捕するのに 十分な期間でした。
アンギャン公〔Enghien〕は「謀反人たちによって待たれた王族である」と誤って告発され、処刑されました。王殺しの元議員たちは、ナポレオンに皇帝の杖を渡す前に、ブルボン王朝の血で彼の手を染める必要があったのです。
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第一統領に対する企ての“共謀者”の人相書。17番にピシュグリュ、29番にカドゥーダル、40番にモローがいる。
「Portraits éxacts des Conspirateurs chargés par le Gouvernement Britannique d'attenter aux Jours du 1er Consul」Anonyme作/出典元:カルナヴァレ博物館
引用元:パリ市博物館ポータルより-LES IMAGES LIBRES DE DROITS集
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アンギャン公爵の処刑
「L'exécution du duc d'Enghien dans les fossés de Vincennes」Laurens作/出典元:コンデ博物館/引用元:ウィキメディアコモンズ
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ふくろう党は痛い目に遭うことを、彼らは分かっていました。
その頃かなり話題となった裁判で、予想通り20人に死刑宣告が言い渡されました。ナポレオンは比較的寛大なところを見せることにしました。側近に懇願されて渋った末に、8人に恩赦を与えました。そのほとんどは貴族出身で、彼らの家柄に配慮してのことでした。残りは殺されました。
「カドゥーダルが、自分の仲間と自分の命を救うため、屈従することを受け入れさえすれば」という提案もありました。しかしカドゥーダルは「俺たちを殺す前に堕落させようとしている」と言って拒みました。
「汚されるよりも死を〔Potius mori quam foedari〕」というのは、ブルターニュの標語になっています。最後の王党派の戦士たちは、その標語を自分のものとしました。彼らは浅ましく自分の命を売るようなことはしませんでした。
1804年6月25日、ジョルジュは11人の仲間と共に、ロザリオを唱えながらパリの断頭台に上りました。彼の死はふくろう党の反乱に終止符を打ちました。
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カドゥーダルの処刑
「Exécution de Georges Cadoudal, 25 juin 1804」Polignac作/出典元:カルナヴァレ博物館
引用元:パリ市博物館ポータルより-LES IMAGES LIBRES DE DROITS集
その後、何人かの司令官と兵士たちが戦いを続け、次第に人数が少なくなり、追い詰められ逮捕されると殺されました。帝国の最後の瞬間まで、名誉のため、忠誠から西部で象徴的に最後まで残った反乱を維持するため、夢中になって戦い続けました。
1:15:48
確かにふくろう党の反乱は、勝利することができませんでした。
少なくともそれは歴史が残した数少ない模範、勇気と忠誠の教えを、この世に残してくれました。
「汚されるよりも死を〔Potius mori quam foedari〕」という教えです。
おしまいです。ご静聴ありがとうございました。
ブルターニュふくろう党の印章
「Cachet des chouans de Bretagne」Numérisation de Khaerrによる提供/出典元:Scan du livre, le général de Lescure, de Etienne Aubrée
*各クレジット・参考文献*
《原文元である動画について》
動画:「ふくろう党の蜂起、忠誠の戦争 1792-1804 : CHOUANNERIES, UNE GUERRE DE LA FIDÉLITÉ-5」
動画投稿者様:白百合と菊Lys et Chrysanthème
https://www.youtube.com/channel/UCF3cr1QHbU9pIiYPwXcESaQ
動画公開元:フランス革命230周年・国際シンポジウム(YouTube)
https://www.youtube.com/playlist?list=PLZ0bRY1tJlDHXVsiczhp4juqntc_OF4mV
動画元のイベント:
王権歴史研究会、ファチマの聖母の会 主催
『フランス革命から230年、伝えられなかった真実を見直そう』(230 ans après revisitons la révolution française)
麗澤大学東京研究センター、2019年7月13日・14日 開催分
該当発表者(フランス語原文 寄稿主):アン・ベルネ (Anne Bernet/歴史家)
通訳音声の文字起こし作業・コメント欄投稿者:師走二八
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《当ページについて》
文章補足作業・地図資料作成・当ページ編集責任者:師走二八
ページの最終更新:2021年
絵画の画像引用元:
「Les collections en ligne des musées de la Ville de Paris」の「Les images libres de droits」コーナーより
https://www.parismuseescollections.paris.fr/fr
「Wikimedia Commons」より(主にCC0のもの)
補足および各制作のために参考にした 主な文献等:
森山軍治郎『ヴァンデ戦争 フランス革命を問い直す』筑摩書房、1996年
小栗了之『ヴァンデの反乱 影のフランス革命史』荒地出版社、1996年
J.ゴデショ(瓜生洋一 他訳)『フランス革命年代記』日本評論社、1989年
T.レンツ(遠藤ゆかり 訳)『ナポレオンの生涯』創元社、1999年
A.Bernet『Histoire générale de la chouannerie』Perrin、2016年
P.Huchet『Georges CADOUDAL et les chouans』Éditions Ouest-France、1998年
S.Vautier『Chouan et espion du roi』La Louve éditions、2013年
P.Vidal de La Blache『FRANCE PROVINCES EN 1789』1942年
Anonyme『Carte de France selon la nouvelle division』
Google Maps 2021
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《絵画類》
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